八 幡 神 社

旧社号  (りゅう)頭山(とうざん)八幡宮(はちまんぐう)
鎮座地  広島県府中市上下町井永691番地

1,創建

大分県宇佐市南宇佐に鎮座する宇佐神宮は、全国の八幡宮・八幡神社の総本宮である。広大な神域に第一・第二・第三の本殿が並立する。旧官幣大社で奈良時代より国家鎮護の神として朝廷の崇敬を受けた。奈良の大仏鋳造には、八幡大神の託宣により陸奥の国の黄金が出たとされる。神護景雲3年(769年)僧道鏡が皇位を窺う事件に際し、和気清麻呂が参拝し神託を受け、道鏡の野望を挫くなど、たびたび神威を発揚された。光仁天皇は「護国霊験威力神通大菩薩」の神号を贈られた。神仏習合の先駆となった神社でもあり、宮寺とも称せられた。

貞観2年(860年)京都に宇佐神宮の分霊を勧請し、石清水八幡宮が創建され、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と尊崇された。

康平6年(1063年)源頼義は、石清水八幡宮の分霊を鎌倉に勧請し、鶴岡八幡宮が創建された。宇佐・石清水・鶴岡が、八幡神社を代表する三大社である。

備後における最も古い八幡宮は、三原市宮内(旧御調郡)に鎮座する御調八幡宮である。道鏡事件に伴い和気清麻呂の姉広虫は、当地に配流され、弟の雪菟のため、宇佐の八幡大神を勧請したのが、当社の創祀と伝えられる。後に石清水八幡宮の別宮となり、社運は繁栄した。

御調八幡宮の分霊を勧請して創建したのが、甲奴町本郷の弘法山中腹の宮迫に鎮座した大宮八幡宮である。有福庄を除く甲奴郡各郷の総氏神として祀られていた。その創祀は恐らく鎌倉時代の初期で、末期には有力な地頭の庇護も無く廃祀された。

廃祀については、大宮八幡宮祭礼の当日争論起り、遂には神器の類を各郷に持帰り、八幡宮を建立したといわれている。その時期については諸説があるが、『康島縣神社誌」には関係神社の由緒に次の如く記している。

(1)建治元年(1275年) 1社 領家八幡神社(総領町)

(2)弘安年間(1278〜87年) 2社 稲草八幡神社(総領町)、有田中船神社(甲奴町)

(3)正中2年(1325年) 12社 井永八幡神社、矢多田八幡神社、矢野八幡神社、国留八幡神社、深江清神社、小塚八幡神社(以上、上下町)、本郷八幡神社、西野八幡神社、梶田八幡神社、有国八幡神社(以上、甲奴町)、安田八幡神社、和知八幡神社(以上、旧甲奴町現三次市吉舎町)

(4)庚安元年(1361年) 上下八幡神社(上下町)
正中・庚安は両度に争論が起きたという説もある。
宮座か祭祀の席順を巡る権力の争いで、遂に刃傷沙汰となったことが、「上下八幡宮神主隅井家系図」に記されている。殿内は血に染まり、参拝する群衆は興奮し、殿内に殺到し、神器の類を奪い合い各郷に持ち帰ることとなったという。

当社の杜伝によれば、井永郷の六兵衛は、殿内より木幣一本を持ち帰り、今の御旅所付近に仮に安置し、八幡大神を勧請した。時は正中2年(1325年)の8月15日であり、翌嘉暦元年(1326年)現在地に社殿を建立し遷座したと伝える。

2,祭神

  品陀(ほんだ)和気(わけの)(みこと)((おう)(しん)天皇(てんのう))

  (たらし)中津(なかつ)日子(ひこの)(みこと)(仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう))

  (おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)((じん)(ぐう)皇后(こうごう))

  

 品陀(ほんだ)和気(わけの)(みこと)は、人皇第十五代応神天皇である。(たらし)中津(なかつ)日子(ひこの)(みこと)は、人皇第十四代仲哀天皇で、(おき)長帯比売(ながたらしひめの)(みこと)は仲哀天皇の皇后神功皇后である。仲哀天皇が九州筑紫にて崩御後、神功皇后は応神天皇が胎内にありながら、自ら政治を摂り軍を率いて三韓に渡り、筑紫に還りて応神天皇を安産された。

 八幡宮の総本宮宇佐神宮が鎮座する宇佐は、大陸交通の要衡で、帰化人が多数土着し、日本の文化交流に尽くした。八幡大神は国家鎮護の神、殖産興業の神として神徳を顕現された。神功皇后が応神天皇を御出産の時、安産であったとの故事により、安産・子育ての神としての信仰もある。

3, 社殿

 本 殿
一間社神明造 銅板茸 間口9尺 奥行7尺 昭和29年再建

 幣 殿(旧本殿)
三間社 入母屋造 銅板茸 8坪
旧本殿は、元禄8年(1695年)の建立

 拝殿(神楽殿)
切妻造瓦茸 10坪 嘉2年(1849年)建立

 
 

    境内社                                   

      

鹿島神社 (武嚢槌命)

一間社流造妻入 銅板茸 間口5尺 奥行7尺

艮神社 (吉備津彦命)

一間社流造 銅板葺 間口1尺7寸 奥行 2尺

厳島神社 (市杵島姫命)

一間社流造 銅板茸 間口1尺6寸 奥行2尺

大歳神社 (大年神・御年神・若年神)

一間社流造 銅板茸 間口五〇 奥行七〇

合祀神社 (境内須佐神社を始め境外末社34社合祀 )

一間社切妻造 銅板茸 間口2尺5寸 奥行3尺7寸

合斎社  (村内小神合祀)

一間社切妻造 銅板茸 間口1尺3寸 奥行1尺4寸

大山神社 (大己貴神)

一間社流造 銅板茸 間口2尺5寸 奥行2尺8寸

祖霊社 (旧社家社人霊)

一間社流造 銅板茸 間口16寸 奥行2

忠魂社 (氏子戦没軍人霊)

一間社流造 銅板茸 間口37寸 奥行32

付属建物

社務所 切妻造 浅瓦茸 5

神輿庫 切妻造 浅瓦茸 6

御供所 切妻造 浅瓦葺 7

手水舎 半坪

御旅所 八幡神社参道入り口脇

,宝物

 紺地金泥大般若経一巻 八幡大菩薩御神像絵 鰐口一口

5,天然記念物 シラカシ 市指定 

6,主な年中行事

 元旦祭 1月1日 

 祈年祭 3月第1日曜日

 合祀神社祭 7月第4日曜日  

 豊穣祭 9月第3土曜日 弓神楽奉納

 例大祭 11月3日

 新嘗祭 1123

7,特殊神事

 弓神楽 県指定 9月14日奉納(詳細は後記)

 井永神楽 市指定 休止中

 祭礼行事 市指定 11月2日神殿入り 11月3日神儀

 式年荒神舞 5年(実質4年)ごとに11月2日斎行

8,弓神楽

  弓神楽は、「弓祈祷」「神弓祭」「家神楽」と称され、かつては備後南部を除き、中北部一帯に盛んであったが、今は、わずかな地域に点在するのみとなっている。弓神楽は、信仰的要素が強いため、神職により保持されてきた。

 弓神楽は、普通の弓を「ユリワ」という半切り桶(すし桶)を伏せて、それに細紐で結びつけ、「打ち竹」という小竹を両手に持ち、弦をたたきながらその音楽に合わせて祭文を唱えるもので、始終正座のままである。最後に悪魔退散の矢を射る時に立膝の姿勢になるのみで、殆ど動作がなく、弓の音色は勇壮、唱える祭文は長閑であり、備後独特の語り口調である。

 弓神楽は、荒神神楽と家毎のカマドの神・()(くう)(じん)の祭りのために演奏される私的な祈祷神楽である。弓神楽の執行記録として、江戸時代のものが残っている。弓神楽は()(くう)(さい)のみでなく、江戸時代末期には、名(めう)・谷と呼ばれた小集落の荒神祭りにも演奏されるようになった。明治後は竈のない家でも、四十二歳、六十一歳(還暦)、八十八歳の厄払い(年祝い)には、必ず弓神楽を宅神祭(かんまつり)の祭儀として行っていた。人生の折り目に衰えた生活力を復活し、長寿を願い、それを阻害する悪魔を鳴弦の威力により退散せしめんとする鎮魂の祈祷として正月を中心に行われる。

唱える祭文の重要なものは、「()(くう)祭文(さいもん)」と「()(くさ)祭文(さいもん)」である。「土公祭文」は、五行神楽を語るものであり、盤古(ばんご)大王を父として生まれた五人の王子の所望の争いと分配がその物語である。手草祭文は須佐之男(すさのおの)(みこと)の悪しき所行により、(あま)(てらす)大神(おおみかみ)が天岩屋に隠れ給うにより、世界は闇夜となる。八百万の神岩戸の前に集いて、天照大神の出御を祈り、天細女(あめのうずめの)(みこと)は神楽を舞った。遂に天照大神が現れ天地を開くという壮大な神話を語るものである。手草祭文によってけがれを祓い、土公祭文によって地霊の土公を鎮め、豊穣を祈念するものである。

弓神楽は、人々の生活変化に伴い、次第に減少し、現在に至っている

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